インゴルフ・ザイデルによる新聞記事

 

ブランデンブルク州が発行する

メルキシェ・アルゲマイネ

2010年6月16日発行 

 

1面の左側に写真入りで紹介記事

中央写真はドイツ大統領ケーラー夫妻

 

 18面に詳細記事(下記)

ギャラリスト槇原瑛一の経歴を紹介

特記: カンペール城において、来る土曜日の午後、「Meinetwegen ( 私のために)」展をオープンします。日本人画家槇原瑛一・田中悦子の両氏が油絵と書道を展示します。オープニングに際し、音楽演奏があります。午後4時開始です。

 

「パリへ行くほど若くはなかった」

インゴルフ・ザイデル記

ー日本人画家槇原瑛一;カンペール城までの道すじー

(カンペール発)景観溢れるベルリン・プレンツラウアーベルク区にある静かな横町通りをゆっくり歩いて行くと、明かりのついた店舗窓があり、立ち止まって中を見ると、芸術作品の列であった。諸外国人画家の油絵、室内には古典音楽が流れていて、奥の方に一人の年老いた男が膝をついていた。肩まで届く灰色の長髪は頭のうしろで束ねられ、低い机に拡げてあるキャンバスの上にかがみこみ、細筆を使って一心に描きこみ、ルーペを使って、作品の中の極小の人間を注視していて、窓の外から誰が見ていようと一切お構いなしであった。

数ヵ月後に、この人と対面。目はいたずらっぽく笑っている。

この画廊は同じ日本人画家、田中悦子の名をとって、「アトリエエツコ」となっている。愛情のしるしと見た。故郷佐世保の絵について語ってくれた。ほとんど一年をかけて、彼は佐世保の絵を2枚描いた。7ヶ月で仕上げた「佐世保全市」は、すでに購入され、ベルリンにはない。2作目は佐世保の雲を描いたもので、2ヶ月で仕上げた。生きる望みを失い、2度までも自殺未遂をした佐世保の未青年時代を表現したもので、「美しき惑いの年、佐世保」と題されて、カンペール城での展覧会に出品される。彼に残っているのは、72年の生涯の思い出である。

10歳の時にピアノを学んだ。絵画と文学を愛した。第二次世界大戦で破壊され尽した都市佐世保にあった美しさを愛した。佐世保は1900年頃から帝国海軍の軍港であり、彼の父親は、海軍御用達の酒商人であった。その息子は違った道を生きた。東京と京都でキリスト教と原始仏教を学び、ピエト・モンドリアンの影響で絵を描き始めた。ヨーロッパが彼を魅了した。ドストエフスキー、バッハ、へーゲルを始め、多くのことを吸収した結果、彼の人生を急激に変えた新たな戦争に身を投じた。

1968年から10年の長きにわたり、ベトナム戦争反対の極左闘争に参加した。最初は3万名を結集した極左集団は、10年後にはわずか、数百名の分裂集団となって壊滅した。彼が再び絵を描き始めたのは1980年になってからである。ヨーロッパの憧れはまだ残っていた。1989年昭和天皇の死に際して、これまでの全生涯につきまっていた戦争を絵画で表現し始めた。10年後、その成果を持ってベルリン行きを決めた。三人の画家を伴ってベルリンへ移り住んだのが1998年冬であった。彼は語った、「ヨーロッパの古典絵画が私に芸術信仰を刻印しました。手仕事による芸術です。とりわけ、ドイツの文学、哲学、音楽が決め手となりました。南の島、九州に生まれた私には、いつも北方への憧れがありました。パリへ行くほど若くはなかったので、何かにつけて気になるベルリンと決めました。ベルリンは危険な都市ですが、私は作画のために必ず不安な状況を必要とします。ベルリンでは東京にいた頃より、ずっとましな絵を描くことが出来ましたし、ベルリンに住んで始めて、日本という国がはっきりと見えてきました。」彼は強い煙草に火をつけて吸い、隣に座っている田中悦子氏に微笑みを送る。彼女もまた、12年前に彼と一緒にベルリンに来た画家であり、ベルリンで彼と結婚した。現在の「アトリエエツコ」はこの二人がベルリンで開いた3番目の画廊である。ヨーロッパの人々に、日本人絵画を紹介し、ベルリンに住む外国人芸術家を支援することが二人の願いである。実際、ベルリンの外国人芸術家は、四面楚歌の状況にある。

槇原瑛一氏は、自分のことを「兵士」とみなしていて、「ヨーロッパをわずかな真実で征服したい」と念じている。念願成就の暁には、いつの日にか東京か、佐世保へ戻るのであろうが、それまでには越えねばならない難所がいくつもある。試行錯誤は必至である。武器は油絵具とキャンバスで、色彩戦争開始となる。とりあえず、カンペール城を征服していただきたい。

 

訳・槇原瑛一

(記者のインゴルフは、佐世保2作と現在作画中の「テンペルホーフ空港群像」を混同していますので、佐世保を描いた作品に関してだけ補筆)